gallu's diary

「弟子向けの口伝」を書いていこうと思います。full openな場所で恐縮ではありますが、基本「ある程度スタンスその他を踏まえている弟子向け」の文章を想定してみたいと思いますので、その辺のスタンスをわきまえられない方には、あまりお勧めできない文章になるかと思いますので、ご了承ください。

お仕事のスタンスについての考察

うん多分、表( http://d.hatena.ne.jp/gallu/ )ではなくて、こっちの方があってるだろう手加減せずにすむので(笑
興味深いBlogがあったので、ちと、そこを基点にして色々と考察をしてみたいなぁ、と。

ネタ元は此方
http://blog.livedoor.jp/midwhite/archives/7144271.html
http://blog.livedoor.jp/midwhite/archives/7312721.html

「学士」ってことは「大学は卒業したよ! したよ!」って事なのかしらん? 或いは「ボクは学者だよ!」って事なのかしらん?
とかいうどうでも良い感想でクッションを挟みつつ。

まずは
http://blog.livedoor.jp/midwhite/archives/7144271.html
から。

1. 「好きなことを仕事にしなければ」という強迫観念
「好きなことを仕事にするべきだ」という話がある。どうせ働くなら楽しめた方がいい、という建設的な意見だ。確かに立派な考え方だとは思うが、僕は敢えて疑問を呈したい。この考え方は、本当に人々を幸せにするのだろうか。

べき論になるとまた色々違うんだけどねぇ。
好きな事を仕事にする善し悪し、そうでは無いことを仕事にする善し悪し、が、それぞれあるのだと思う。

僕はこれら2種類の高校生たちを見ていて、「好きなことを仕事にする」という考え方の限界を感じざるを得ない。前述した高校生のうち「好きなこと」が決まっている生徒は、果たして全員が希望の職業に就くことができるのだろうか。或いは、その職業に就くことで全員が幸せになれるのだろうか。恐らく答えはNoである。

ん…「その職業に就くことで全員が幸せになれるのだろうか」については。
以前読んだ漫画の台詞を、可能な限り思い出してみたい。
…記憶なので、細かい語尾は多分、違うけど、言いたいことは伝わると思う。

幸せになるためにあの人と結婚するんじゃないの。
あの人と結婚することが、私の幸せなの。

「あんな人と結婚しても幸せになんてなれませんよ!」という親御さんの意見、に対する反論だったと思う。

「向き不向きよりも 前向きに」なんて言葉もあるしね。
強迫観念まで伴うような状況はいずれにしてもよくないので。良くないのは「好きな事を云々」ではなくて、「柔軟性に欠ける、脅迫概念的な思考」だと思う。

一人でも多くの就活生がこの強迫観念から解放されるために、この幻想について本稿で論じてみたい。

「まずはその幻想をこの右手でぶち殺す!!」マテコラw

2. 仕事とは何か
そもそも仕事とは何だろうか。これについては以前、成長でも脱成長でもない、新しい「豊かさ」への挑戦という記事で論じたが、生きるための糧を得る行為である

うんまぁそんなもんだよねぇ。そこがstartラインだと思う。

本稿において重要なのは、仕事が「好きなこと」を通してではなく「できること」を通して行われるという点である。何といっても仕事の成立は相手が対価を支払うかどうかにかかっているのだから、「好きだけど下手なこと」よりも「好きでないけど上手いこと」の方が相手にとってありがたいに決まっている。

概ね。ただ一方で「好きだからこそ上達する」エリアもあるわけだし、お仕事の種類によっては「その仕事を好んでいるか嫌っているか、が、相手に如実に伝わるために、結果的に"その仕事を好んでいる"人がやるほうがより適切に"できる"状況になる」お仕事なんてのもあるわけで。

従って仕事が本人にとって必ずしも「楽しいもの」である必要は無く、むしろ「辛いこと」であっても、それを通して生活できるのであれば、本来の目的は達成していることになる。

「つらい」の意味合いにもよるんだけど、場合によっては「短期的には収入があるから生活が成り立つんだけど、中長期的には心身を病ませる可能性」なんてのも想起されるので、今ひとつ肯定できない。

まず前者について、僕はむしろ「仕事は楽しくなければ人生つまらない」などという価値観の方が暴力的であると思う。というのも、人生は職業生活だけで構成されているのではなく、労働していない時間、即ち余暇時間も含めての人生であるということを指摘しておきたい。

まぁこの辺は人それぞれ。
なので否定はしないけど、同じくらいに、全面肯定もしない。

「仕事が楽しいもの」であるという価値観は、労働時間を短縮して余暇時間を充実させようとする価値観を圧迫する。本来、労働時間は短いほど望ましいものであったはずだ。

前半はYesなんだけど、後半の「本来、労働時間は短いほど望ましいものであったはずだ」については「なんで? 決めつけないでくれる?」って感じだ。
勿論「本来、労働時間は短いほど望ましいものであったはず、という価値観を持つ人もいる」ならtrueなんだけど、全員がそうとは限らない。
っつか「労働と余暇の境界線が曖昧な人」だって、一定数いるわけで。

それが「仕事が楽しい」という倒錯した価値観によって歪められ、長時間労働を助長しているばかりか、それに対して正当な報酬が支払われないことへの言い訳としても機能してしまっている。

「それに対して正当な報酬が支払われないことへの言い訳としても機能してしまっている」これは色々と違うと思う、というか別問題だ。
少なくとも「仕事が楽しいから無報酬で残業をしなさい」ってロジックは、それなりにブラックな所を見てきているけど、とりあえず一度もお目にかかったことがない。
ってことは「ない」とは言い切れないにしても「さほどポピュラーなロジックではない、可能性」が想起される、と思う。

この由々しき事態を打開するためには、本来の「労働は短い方が望ましい」という考え方を思い出すために、「仕事は楽しくなければならない」などという強迫観念を見つめなおさなければならない。

「本来の「労働は短い方が望ましい」という考え方を思い出すために」いやだからとりあえず決めつけるな、と。
「「仕事は楽しくなければならない」などという強迫観念を見つめなおさなければならない」は概ねtrueなんだけど、かかるのは「強迫観念」。どんなものであれ、強迫観念は一端、見つめ直したほうがイイと思う。「労働は短い方が望ましいはず」という強迫観念を含めて。

しかし「好きなこと」が仕事になるとは、厳密にはどのような状態なのだろうか。

面白い議題定義だとは思うんだけど。

それは、例えば彼らが携帯ゲームやバンド活動などのように「好きなこと」があっても、それを収益性制約をクリアする形に加工することが困難である場合が多いことに由来する。そのため彼らは「携帯ゲームをすること」ではなく「ゲームを作る会社でエンジニアとして働くこと」、「バンド活動をすること」ではなく「ライブ会場の技術スタッフとして働くこと」を選ばざるを得ない。しかし本来であれば、彼らは「好きなこと」とほんの少しだけズレた仕事に多くの時間を奪われるよりも、最短で生活に必要な糧を稼いで自分が本当にやりたいことを余暇時間に実現した方が幸せであるとは言えないだろうか。

これも「個体によりけり」としか言えない。
ゲームを「遊ぶのが」好きなのか「作るのが」好きなのか、或いは「自分が作った物で他の人が楽しんでいる(稀に、苦しんでいるw)様子を見るのが」好きなのか。
純粋に「遊ぶのが好きなだけで、作るのには興味が無い」人がゲーム作成に関わると大惨事になるんだけどね(苦笑

「好きなことを仕事にする」とは、言い換えれば「好きなこと」に制約を受け容れるということである。しかし本来、「好きなこと」とは他者が金を出すかどうかに関係なく、自由に設定されるものであるはずだ。

うんだから以下略。


お次。
http://blog.livedoor.jp/midwhite/archives/7312721.html

最近、これについて人に話した際によく聞かれる反論が見えてきたので、本稿ではそれらに対する再批判を試みる。

あぁやっぱり色々突っ込まれているのか(苦笑

まずは基本的な考え方について確認しよう。第一に人間の生活は、労働時間と余暇時間に分けられる。

大枠Yesなんだけど、その境界線が曖昧な人もいるので、これを「絶対にtrue」って考えるのは間違い。

例えばモノを作る職人は、自分の好きなモノばかりを作っていては仕事にならない。

これもダウト。
一つに「それなりに才能があり、且つ、商人と手を組める」と、仕事になりうる。
次に「"ニーズのあるもの"を作る、というのが自分の好みに合致した」場合にも、仕事になりうる。
なので、別に「好きなモノばかりを作っていると仕事にならない」ってのは、明らかに、間違っている。

…なんだろうねぇこの「好きなモノ」とか「クリエイティブ」に対する、妙に狭量な感じは(苦笑

誰かが買ってくれるモノ、つまり対価を支払うだけの価値を他者が見出すに足るようなモノを作らなければ、職人は食っていくことができない。

ここ自体はtrueなんだけどね。
ちなみに人間って案外「似たような価値観を持っている人」って、いるよ?
特に、The Internetがインフラストラクチャーになってから「ニッチなニーズを掘り起こす」のが比較的容易になっている現在、その辺はむしろ「よりよい方向」に進んでいる可能性が、十分にあると思う。

では職人が自分の好きなモノを作るにはどうしたら良いだろうか。それは何らかの方法で生きていくためのお金を稼ぎ(=生存制約を満たし)、余った時間で好きなモノを作るしかない。

うんここが「致命的に間違えて勘違いしている」んだな。
「好きなモノ、は、売れない」っていう前提を勝手に決めつけてしまっている。

即ち仕事に「生きがい」を感じ、それに人生の多くの時間を割く人間も多くいるはずだ。彼らにとっては仕事こそ「豊かさ」であり、その事実を無視して「労働時間の削減=豊かさ」と断言するのは暴論に他ならない、と。

ふむ…「最低限食える金がある」んなら、それもまた一興。
でもまぁ「一興」程度でしかない、とも言えるんだけどね B-p

僕らは一般に、望むと望まざるとに拘わらず、良くて1日に8時間は働かなければならない。(他にも働き方はあるが、まずはそのような働き方については問題にしない。)

ん…エラいこと狭く区切ったな(苦笑
サラリーマン前提ですか(苦笑

通、僕らは就職に際して「1日に4時間だけ働いて最低限の生活費を得て、あとは余暇を楽しむ」という選択肢と「楽しめる仕事を見つけて1日に10時間ほど働く」という選択肢を比べて後者を選択する、といった考え方はしていない。それは前者が現実的に殆ど不可能だからだ。

後者だって随分と難しいがね。
前者は「パートタイムジョブ」につけば可能だし、あとはやりくりで頑張れ、としか。
どちらかというと「楽しめる仕事を見つける」ほうが、人によっては、難しいんじゃないの?

労働時間の中で「生きがい」を実現することと、余暇時間の中で「生きがい」を実現することの、どちらの方が幸福かについて考えてみよう。論理的には、自由度の低い労働時間の中で実現できることは、自由度の高い余暇時間で実現できることに包摂されるはずである。つまり、その仕事がそこまで自分の「やりたいこと」であるならば、生存制約を満たした後のより自由度の高い余暇時間で行った方が、労働の中ではできなかったことにも手を広げられるので幸福度が高いはずである、という指摘である。

「論理的には、自由度の低い労働時間の中で実現できることは、自由度の高い余暇時間で実現できることに包摂されるはずである」…論理的、って文章に"はず"とかって単語使うなよ(苦笑
ちなみに、労働/余暇の定義によってはこの「はず」は崩壊するんだよね。
例えば「ゲーム作って課金するユーザがいる状況が楽しい(課金してくれるほど楽しいと思ってくれている!っていうのが欲しい)」場合。これが「会社での仕事じゃない」時に、このゲームを作るのは労働? 余暇?

多分もうちょっというと「自由度の低い労働時間」「自由度の高い余暇時間」ってのも概念としては怪しいし。
更にぶちこむと、createって案外と「自由度が低くて制限が沢山ある」ほうが、よい作品が生まれる土壌になったりもするんだよね。
んで「良い作品を作る事が何よりも好き!」って人にとっては、つまり「自由度が低い方が結果的によかったり」もするし。

故に

つまり、その仕事がそこまで自分の「やりたいこと」であるならば、生存制約を満たした後のより自由度の高い余暇時間で行った方が、労働の中ではできなかったことにも手を広げられるので幸福度が高いはずである、という指摘である。

根本から間違えているので、その指摘は、違う事もある。

企業が営利を追求するのは、必ずしも自身の欲望だけに基づいているわけではない。よほど儲かっている少数の企業でなければ、会社は従業員が食っていくための手段として経営されている。そのため、いくら顧客のためであろうとも、営利を損なうサービスは従業員のためにならない。

うんここも駄々甘。
社会人ではない人なのかなぁ? 社会人だとすると、かなり痛い部類に入るんだが(苦笑
「いくら顧客のためであろうとも、営利を損なうサービスは従業員のためにならない」は概ねYesなんだけど、非常に間違いやすい文脈。
短視野でみるか、中長期で見るか、で、全然違う。
この辺は、リッツカールトン系の書籍とかを読んでみると、得るものが多々。

従って、現実的に可能な線を注意深く見極めながら、ギリギリ可能なレベルの「甘え」を許していくことこそ必要なのではないか。

この辺は特に違和感なく。
…っつかおいちゃん、思想が割合と「マッチョ依り」らしいので、特に気をつけております(苦笑

余暇に「生きがい」を求める生き方が一般化するために、仕事以外の「生きがい」を持つ人が一人でも多く増えることが必要だ。労働時間を縮小した方が人間は幸福になれる、という価値観が浸透しないことには、そのような手段は利用され得ない。

ん…根っこにあるのは「価値観の一方的な押しつけ」で。
つまりBlog主が危惧しているような「仕事こそが生きがいである!」って押しつけは確かに危ないんだけど、同じくらいに「仕事以外の「生きがい」を持つ人が一人でも多く増えることが必要だ」という押しつけも、全く同じだけの危険性がある。

冷静に考えて、社会人が仕事以外に楽しんでいることの例として、華金の飲み会や小旅行など「束の間の休息」くらいしか想像されない社会は、果たして本当に豊かなのだろうか。

なんで飲み会したり旅行したりしなきゃなんないのさ?
って突っ込まれるよ?

まず収益構造については、有名な『金持ち父さん、貧乏父さん』という自己啓発本に諮ってみよう。この本は労働から解放されるための手段として、絶え間なくキャッシュフローを生み出すために時間を費やすよりも、そのキャッシュフローを次々とストック化して新たなキャッシュフローを自動的に生み出す収益構造を確立するというようなことを挙げている。

はぁ…その「裏側」がどうなってるかとか、考えているのかね? と。
近いのがネットの構図でもあるよねぇ。
割合と多くの人が「ネットに聞けば教えてくれる」って思ってるけどそうじゃない。「教えてくれるのは、ネットの向こう側にいる"誰か"」なんだよね。
「この本は労働から解放されるための手段として -中略- そのキャッシュフローを次々とストック化して新たなキャッシュフローを自動的に生み出す収益構造を確立する」っていうけど。その「自動的に」の裏側には、あなたが否定している「絶え間なくキャッシュフローを生み出すために時間を費やす」人達がいるんだよ? その上澄みをかすめ取ってるだけなんだよ?

ストック型のビジネスは、収益構造を軌道に乗せて安定化させてしまえば、少ない労力で継続的にキャッシュフローを生み出すことができる。

「メンテナンスしないピアノはあっという間にズダボロになる」んだがね。
「安定化させてしまえば」って単語に、現実の見えてなさをしみじみと感じるよ正直。

生存制約に縛られない自由な活動が、既存のビジネスに対して労働ダンピングとして働き、既に生活を支えられていた人々の収益源が破壊されてしまうのではないかと危惧される点である。

思考としては面白いんだけど。
現実問題として「生存制約に縛られない」人って、そんなに沢山いるのかね?


ん…「何かがあったんだろうなぁ」という背景が垣間見て取れる程度に、偏った文章ではあるわけなのですが。
偏った文章なだけあって、物の見方というか価値観というか「目指すべきモノ」というか、が、あんまりにも一方的すぎて(苦笑

「思考の1パターン」としては面白いんだけど、それ以上のものではないし、どちらかというと「間違い探し/突っ込み力養成ギプス」以上のものではない感じだなぁ(苦笑

追記:
http://blog.livedoor.jp/midwhite/archives/7178246.html
2014年04月03日22:29

社会に出て3日目に思ったこと。
こんにちは、高野です。大学2年生の頃から意識の高い学生を続けてきた僕も、ついに社会人になってしまいました。4月1日に入社式があり、そこから新入社員研修を受け続けて3日目です。

あぁ子供か(苦笑